中山みずほ 世田谷区議会議員(立憲民主党)

中山みずほ
ストーリー

政治は「生活」と直結している。
だから、私は政治の世界に飛びこんだ。

◆裕福でなかった子ども時代◆

私が生まれたのは1970年。西日の当たる狭いアパートで育ちました。明るく仲の良い家族でしたが、家計は苦しかった。父は生活に無頓着な「自由人」、家計は母が知恵を絞ってなんとかやりくりしていました。部屋は読書家の父の本だらけ。寝る場所もなく、母と妹と3人で2枚の布団に寝ていました。だから、今でも寝るときは直立不動!寝相の良さには自信があります。

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◆登山靴と自転車◆

小さいころは毎週末、父に連れられ山、川、キャンプ へ。遊園地に行く友だちが羨ましかった。家計は苦しいのに、キャンプ用品や登山靴にお金をかける父。私が欲しいのは自転車なのに…、と子ども心に複雑な気持ちでした。公園に行くときは、みんなの自転車を追いかけて走っていたことを思い出します。ただ、家族とともに自然の中で過ごした日々は、今の私の「何か」になっている気もします。

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◆支えてくれた母のこと◆

高校3年の時、父が突然、家を出てしまいます。家計はさらに苦しく、「大学受験は国立一本勝負!滑り止めはナシ!」と決めました。しかし、希望の国立大学には届かず、進学は諦めざるを得ませんでした。当時の記憶で忘れられないのが、母のダブルワーク。会社から帰宅すると夕飯を作り、夜はビル清掃の仕事にでかける生活を続けながら、私と妹の学費を捻出してくれていました。

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◆リクルートから始まったキャリア時代◆

進学を諦め、喫茶店でアルバイトをしていたころ、リクルートの社員募集広告を見つけます。応募すると、幸運にも採用!創業者、江副浩正氏の「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉は、いつも私の脳裏にありました。その後、広告代理店に転職。寝る間を惜しんで働いた結果、28歳で営業課長に抜擢されました。一方、男社会の中で、女性であるが故の理不尽な経験や悔しい想いも。

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◆大学へ行こう!◆

取引先で男性3人と打ち合わせをしていたある日、「ところで、大学はどちらですか?」と聞かれます。「私、大学は出てないです」と答えた時の、気まずい空気は今でも印象に残っています。32歳で社会人大学に入ると決め、世田谷区にある産業能率大学に入学しました。MBAも取れると意気込んだものの、短大卒で修了。とはいえ、仕事で経験してきたことを体系立てて学び直した貴重な機会でした。今で言う、リスキリングです。

◆必死で保育園を探し、復職するも…◆

36歳で結婚。翌年、新たな挑戦で、都内のホテルに転職しました。しかし、入社直後に妊娠、そして出産。幸せの絶頂のはずが、「保育園落ちた!」を経験します。必死の思いで保育園をみつけたものの、乳飲み子を預けながら働くことの肉体的・精神的負担は想像を超え、一時期、鬱状態にもなりました。

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◆私を大きく変えた、東日本大震災◆

2011年3月11日。それまでの価値観がガラガラと崩れ落ちました。利益や年収より大切なことがあると感じたのです。20年積み上げてきたキャリアを捨て、地域の女性たちと共に、放射能から子どもを守るために「世田谷こども守る会」を立ち上げました。同時に、震災や子どもに関わるNPOにも参加。この時、実感したのが「政治がいかに生活と直結しているか」ということです。暮らしを良くするには、政治と無縁ではいられない。私は、自分の役割を真剣に考えるようになりました。そして、政治の世界に飛び込む決断をしたのです。

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◆政治に、私の役割がある◆

2019年、女性中心のチームで世田谷区議会選挙に臨み、初当選。それから4年間、休む間もなく、保活、不登校、子どもの障がい、DV、介護、貧困など、悩みを抱える女性たちの声を聴き、支援につなぎ、必要な政策を打ち出してきました。女性の課題は、政治が積み残してきた課題そのもの。立候補の時に掲げたこの言葉は、コロナ禍を経て、確信に変わりました。子ども時代の複雑な思い。生活のため働き続けた母の姿。子育てをしながらの会社員時代と震災後の経験。そして、議員として、女性たちの暮らしを見つめてきた4年間。すべてが、今、私の中でつながっています。

中山みずほ

―女性の暮らしと政治をつなぐ。―

この思いを胸に、私、中山みずほはこれからも走り続けます。

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