中山みずほ(立憲民主党世田谷区政策委員) 

中山みずほ
ストーリー

48歳年女。
なぜ私が政治家を目指すのか?

◆裕福でなかった子ども時代◆

私は1970年、大阪万博の年に生まれました。私の住んでいた家は西日の当たる狭い木造のアパートでした。父がとても自由人で経済的な問題をいつも抱えていましたが、明るくて、家族は仲良し。でもお金がない。いつも母が知恵を絞ってなんとかやりくりしていました。

ハタチで一人暮らしを始めるまで、1枚の布団で寝たことがありません。部屋は父の本だらけで、要するに寝る場所がなかったのです。母と妹と3人で2枚のお布団に。だから今でも私、あまり動かないのです、寝るときは直立不動!

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◆登山靴と自転車◆

小さいころは毎週末、父に連れられて山・川・キャンプへ。遊園地に行く友だちが羨ましくてしょうがなかったですね。父は、お金もないのにキャンプ道具と登山靴にはお金をかける。登山靴を買うなら、自転車を買ってほしかったのに。 みんなが自転車で公園に遊びに行くときも、私だけ自転車を追いかけて走っていました。ちょうど息子と同じ4年生くらい、当時はまったく苦に思っていなくて、おかげでリレーの選手に選ばれたことも。でも今、親になった立場で思うと、もし息子だけ自転車を持ってなかったらこんな悲しいことはないな、と振り返ったりします。

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◆父のこと◆

高校3年のとき、父が突然、家を出ていってしまいます。当然、経済状況はさらに悪化し、私の受験は、国立一本勝負!滑り止めはナシ!この道しかない!(笑)。塾代を捻出できたのは母のダブルワークのおかげです。母は会社から戻ると、私と妹のご飯を作り、ビルの清掃に行く生活を続けていました。残念ながら志望校に合格できず浪人生活に入るのですが、2ヶ月で受験勉強に意味を見出せなくなり、家のためにも働こう!と決心しました。

アルバイトを始めましたが、出て行った父が友人の保証人になっていたため、アパートにも、バイト先にも、借金取りがやって来るようになりました。どうすればいいのか分からず、なけなしのバイト代をつい払ってしまうことが何度もありました。それなのに、二十歳のお祝いに、父から誕生石のダイヤモンドとモンブランの万年筆が送られてきました。こんなに怒ることはないです!そんなお金があったら…。父とのギャップは、登山靴のときからまったく埋まっていませんでした。

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◆リクルートから始まったキャリア時代◆

喫茶店でしばらくアルバイトを続けた後、新聞広告を見て応募して、リクルートに入社しました。創業者、江副浩正氏の「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉を、ずっとどこかで思って生きてきた気がします。リクルート退社後は、広告代理店に勤めます。死ぬほど頑張って営業成績を上げて、28歳で営業課長に抜擢。合併を繰り広げる大手銀行や保険会社を新規開拓した私の年収は上がり、経済的には黄金時代を過ごしました。

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◆大学へ行こう!◆

ある日、取引先と打ち合わせをしていて「ところであなた、どこの大学?」と聞かれます。「私大学行ってないんですよ」と答えると、そこにいた3人の男性が大変びっくりされて、「えっ?大学行ってないのに課長なの?」と。ああ、大学に行かないとこういう目で見られるのだと知り、32歳で社会人大学に入りました。世田谷区にある産業能率大学です。MBAも取れると意気込んで入学しましたが、短大卒で終了。とはいえ、仕事で経験してきたことを、体系立てて学びなおした貴重な機会でした。

◆必死で保育園を探し、復職するも…◆

縁あって36歳で結婚。翌年、新たな挑戦をしたいと広告代理店を退社し、ホテルに転職しました。しかし、入った途端にわかった妊娠、そして出産。育休中、何度も上司から「いつ戻るんだ?」と電話がかかり、私は必死で保育園を探しました。 息子は12月生まれで、認可保育園の締め切りはもう過ぎていました。狭き門の2次申込みで「保育園落ちた!」を経験。産後の辛い体を抱えながら保活を続け、3月ギリギリに認可外の保育園に内定、息つく間もなく4月に職場復帰。育児と仕事の両立はとてもとてもハードで、一時期、鬱状態にもなりました。

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◆私を大きく変えた、東日本大震災◆

2011年3月11日。多くの命が失われ、原発事故が起こり、それまでの価値観がガラガラと崩れ落ちました。子ども時代の経験もあり、経済活動を第一と考えてビジネスの世界で生きてきたのですが、本当に大切なこと、取り組むべきことが他にあると感じたのです。

私は、20年積み上げてきたキャリアを捨て、放射能から子どもを守るために「世田谷こども守る会」を立ち上げました。給食の安全を世田谷区に訴え、同時に「子ども全国ネット」「福島の子どもたちとともに・世田谷の会」など、震災と子どもに関わる多くの活動に参加しました。活動を始めて、NPOやNGOの方々、政治家、ジャーナリスト、弁護士など、多くの活躍する女性たちと出会い、私には何ができるのだろうと、改めて考えるようになりました。

◆政治に、私の役割がある◆

活動する中で、もうひとつ実感したのが「政治がいかに生活と直結しているか」ということでした。困りごとを何とかしたい、暮らしをもっと良い方向に変えたい、皆の願いを届けて実現させたいと思ったら、政治とは無縁ではいられないのです。

世田谷区子ども・子育て会議公募委員など、3つの世田谷区の委員を務めている時期に、私は「NPO法人せたがや子育てネット」の子育て相談員になりました。キラキラしている素敵な女性がものすごいDVにあっていたり、保育園探しで悩んでいる方が、実は食べるものを買えないほどお金に困っていたり、お金がある家庭なのに経済的DV(夫がお金をよこさないなど)があったりと、悩める女性たちの声をたくさん聴きました。

中山みずほ

子ども時代の経験、母の姿。営業や広報の分野でビジネスに邁進したこと。そして、震災後、いのちについて考え、多くの女性たちとともに活動してきたこと。すべてが私の中でつながりました。女性たちを取り巻く現実をなんとかしたいという思いに突き動かされ、私は、政治家を目指すことを決意したのです。

(2018.12.16 中山みずほ)

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